10月15日(土)、連続講座「古代の朝鮮と日本」Season2、第5回「波濤を越えた交流-渤海・日本航路をさぐる-」を開催いたしました。講師をつとめられた金沢学院大学名誉教授・小嶋芳孝先生は、高句麗滅亡後の故地に建てられた渤海と日本との深い交流について詳しく語ってくださいました。一般市民や学生ら153名が受講いたしました。
☆講演内容の要旨は以下の通りです。


渤海使船は、ポシェト湾に置かれた塩州城(クラスキノ城跡)を出航して日本海を横断し、出羽や加賀に来航した可能性が高い。8世紀代に出羽に来航した渤海使船は小型船で、ポシェト湾からナホトカ湾を経て出羽に来航したと推定している。出羽に来航した渤海使は、日本側の遣渤海使船(100人乗り?)で能登福良津から塩州城に向けて日本海を直航した。
加賀( 金沢市) には、8・9世紀と連続して渤海使船が来航している。ポシェト湾から日本海を直航して加賀に来航したと推定している。
朝鮮半島北部の青海土城は、瓦当文様から9世紀代の造営と推定している。遺跡規模については検討を要するが、咸鏡道では最大規模の平地城であり、南京南海府の有力な候補遺跡である。もう一つの大型平地城である城上里土城については金宗赫氏や河創国氏の論文で概要を知ることはできるが、出土遺物の図面や写真が公表されていないので年代を判断することができない。 9世紀になると隠岐・出雲などへ渤海使船が来航するようになり、ポシェト湾を出航して渤海領域の南端に近い新浦市附近(吐号浦?)を経由して日本海を横断したと推定している。

路を踏襲している。9世紀の渤海-山陰航路は、博多を中心に展開していた唐・新羅商人の経済活動との接触を目的としていた可能が高い。渤海-日本航路の変遷は、東アジア世界の構造変化に対応していた。 渤海使船は目的地を定めており、遭難して各地に漂着したわけではない。(以上)