10月15日(土)、連続講座「古代の朝鮮と日本」Season2、第5回「波濤を越えた交流-渤海・日本航路をさぐる-」を開催いたしました。講師をつとめられた金沢学院大学名誉教授・小嶋芳孝先生は、高句麗滅亡後の故地に建てられた渤海と日本との深い交流について詳しく語ってくださいました。一般市民や学生ら153名が受講いたしました。
 
 
☆講演内容の要旨は以下の通りです。
 
▶はじめに 渤海は現在の中国吉林省南部・黒竜江省東南部、北朝鮮咸鏡南道・咸鏡北道、ロシア沿海地方南部を領域とした古代国家である。698年に建国され、926年に契丹の攻撃で滅亡している。渤海は日本に34回の使節を派遣し、日本は13回の遣渤海使( 渤海使の送使を兼務) を派遣している。今回は、渤海と日本を結んだ航路の研究史を整理し、近年のロシアと北朝鮮の考古学調査の成果を踏まえて渤海航路研究の新たな視点を紹介したい。
 
▶渤海使船の出航地と航路 渤海は、内陸部から北に領域を拡大している。沿海地方中部では、シホテアリン山脈東側の海岸部を支配できたのは9世紀中頃以後だった可能性が高い。このような状況下で、8世紀代に渤海使船が沿岸各地に寄港して北上することは困難である。
渤海使船は、ポシェト湾に置かれた塩州城(クラスキノ城跡)を出航して日本海を横断し、出羽や加賀に来航した可能性が高い。8世紀代に出羽に来航した渤海使船は小型船で、ポシェト湾からナホトカ湾を経て出羽に来航したと推定している。出羽に来航した渤海使は、日本側の遣渤海使船(100人乗り?)で能登福良津から塩州城に向けて日本海を直航した。
加賀( 金沢市) には、8・9世紀と連続して渤海使船が来航している。ポシェト湾から日本海を直航して加賀に来航したと推定している。
朝鮮半島北部の青海土城は、瓦当文様から9世紀代の造営と推定している。遺跡規模については検討を要するが、咸鏡道では最大規模の平地城であり、南京南海府の有力な候補遺跡である。もう一つの大型平地城である城上里土城については金宗赫氏や河創国氏の論文で概要を知ることはできるが、出土遺物の図面や写真が公表されていないので年代を判断することができない。 9世紀になると隠岐・出雲などへ渤海使船が来航するようになり、ポシェト湾を出航して渤海領域の南端に近い新浦市附近(吐号浦?)を経由して日本海を横断したと推定している。
 
▶渤海-日本海航路の背景 渤海-出羽航路は、7世紀の靺鞨と蝦夷の交易ルートを踏襲したと推定している。渤海- 加賀航路は、6世紀末~ 7世紀の高句麗-加賀の航
路を踏襲している。9世紀の渤海-山陰航路は、博多を中心に展開していた唐・新羅商人の経済活動との接触を目的としていた可能が高い。渤海-日本航路の変遷は、東アジア世界の構造変化に対応していた。 渤海使船は目的地を定めており、遭難して各地に漂着したわけではない。(以上)